コラム:私の出会った大根役者




 学生時代を振り返ると、好感を持てなかった授業が多々あった。それらに共通するのは、Learners- orientedでなく、おしなべてTeachers-orientedだったということ。つまり、自分の授業が学生にどう映っているのかという視点が欠けていたように思えるのだ。反対に、記憶に残る懐かしい授業では、先生が苦心されながら、さまざまな方法で学生に積極的にアピールをされていたように思う。教師も一種の役者であると考えるなら、私の記憶に残る「大根役者」は次のような方々だった。

1.熱意がなく、無気力な「役者」
たしか、語学の授業だったと思うが、ノルマなので仕方なく担当しているという本音が露骨に表れていた先生がいたように思う。高校までの授業では先生がもっと親身になって一生懸命教えてくれたのに、大学の先生はどうしてこんなにやる気がないのか、結構な給料もらってるのに、と腹が立った記憶がある。

2.学生のレベルに無頓着な「役者」
名大の新入生にどの程度の学力水準にあるのか、たいていの先生はご存じのはずだ。もし、知らなければ昨今の入試問題を自分でトライすればすぐわかる。でも私の学生時代、特に自然科学の授業では、今まで聞いたこともないような理論や公式が続出し、パニック状態になってドロップアウトした学生が多かったように思う。それなりに基礎を学んできたはずなのに、どうして大学数学の壁はこうも厚かったのか。独断と偏見で考えるに、一つには、教科書が高いわりに内容が無愛想で、解説が少なく、つまずいた時のアシストがないから。二つ目は、先生の説明が十分でなく、「理解できないのは君らの問題だ」という姿勢が垣間見え、やる気をなくしたように思う。三つ目は、私の頭が悪かったから。

3.授業を創意工夫しない「役者」
私が学生だった頃は、大学は今よりずっとのんびりしていて、何年も昔に作ったボロボロの講義ノートを十年一日のごとく繰り返し使用していたツワモノの先生方が数多くいた。風雪を耐えて熟成された内容であるからそれなりの深みがあろうが、これで時代の変化とか学生のニーズに十分に対応できるのだろうか、と疑ったことを憶えている。高校時代までに、工夫に富んだ授業を数多くみてきたので、大学で唖然としたことを覚えている。また、結局何が言いたいのか、どうも話が散漫で要点がわからない授業が多かった。


4.声が不明瞭な「役者」
大人数の講義の時、マイクのエコーがききすぎてカラオケ状態になってしまい、かえって何を言っているのかわからないことがよくあった。マイクを通した中年男性の声というのは、心地よい眠気を引き寄せる。これが、昼食後の授業であったりすれば尚更だ。しかし反対に、接触不良などで、全然声が聞こえないこともあった。かといって、声が明瞭に聞こえないのは問題だし、大学の先生方はボソボソ話す人が多いので、余計に聞き取れない。学生のそういうフラストレーションに対して先生たちはいささか無頓着だったようだ。

5.成績評価基準がわからない「役者」
高校までは、試験もレポートも採点したあとで必ず返却してくれたのに、大学ではどうして一方通行だったのだろうか。また、評定基準が不明瞭な授業が多かったような気がする。たとえば、60点以上が合格(優、良、可)だとしても、大学の試験のほとんどは記述・論述だから、先生の匙加減一つで10点や20点の幅は、何とでもなるだろうと思ってしまう。できれば、評価基準をオープンにしてもらいたいものだ。学生時代、なぜ優をくれたのか不思議なことがあったし、反対に、なぜ不可なのか納得がいかないこともあった。評定の基準は、シラバスあるいは最初の授業の時に明らかにするなど、オープンでフェアな方法を望みたい。

6.時間を守らない「役者」
バイトの時間が迫っている時など、先生がなかなか授業を終わってくれずに困った経験がある。学生が時間通りに集まらないというのも悪いが、終わる時間を延長されると、こちらの予定も狂ってしまう。できれば、遅れてくる学生は入室禁止にしてもいいから、時間がきたらピタッと終わってほしかった。授業内容がいつも尻切れになる先生もいるけど、授業のタイム・マネジメントにもっと注意を払うべきじゃないかな。もっとも、ゼミで議論が白熱して延長したときは、それはそれでおもしろかった。 
(高等教育研究センター・近田政博)