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コラム一覧
発信から対話へ:移りゆく科学コミュニケーション(日本編)
市民と研究者のあいだで科学技術についてのコミュニケーションをはかることは、戦後一貫して日本の科学技術政策の課題でした。以下に概要をご紹介しましょう。
日本初の科学技術白書(1958年)には「科学技術を育てあげることに対し、国民の理解と支持を得ることが必要である」と記され、科学技術庁十年史(1966年)では広報・啓発業務の目標のなかに「科学技術に関する各種のコミュニケーション」という表現が用いられています。当時の活動は情報発信を主眼とするものでしたが、1960年以降は総理府による科学技術に関する各種世論調査も開始されました。
1970年頃には公害問題や原発問題がおこり、反対運動なども活発になります。この時期、日本政府は技術アセスメント(TA)について検討を行っています。海外では同時期にTA機関が設立されるなどしていますが、日本では制度化されずに終わりました。いっぽう、原子力技術の導入にさいしては、パブリックアクセプタンス(技術の社会的受容、PA)という行政と市民のコミュニケーションの視点も取り込まれました。ただし、技術の導入が前提にあり、市民の側に科学技術知識があれば受容に向かうという認識にたっている(のちに欠如モデルと呼ばれる考え方です)など、日本では説得・教化の色合いが濃かったようです。そのため、情報提供の強化につながっていきました。
日本において科学コミュニケーションに光があたるようになった大きな契機は、平成5年版科学技術白書(1993年)です。工学部卒業生の製造業離れ、若者の科学技術に対する関心の低下、大学受験における理工系学部志望割合の減少傾向といった1990年前後の「若者の科学技術離れ」現象がとりあげられました。また、「科学者や技術者が活躍している現場を直接あるいは間接に体験したり、そこで活躍している科学者や技術者の生身の人間としての姿に触れたりできる機会を国民に提供することが極めて有効」として、知識を伝えることから一歩踏み出すことも提案されました。この白書はマスメディアにも取り上げられるなど注目を集めましたが、同時に日本の科学コミュニケーションは青少年に対する情報発信という意味合いをもつこととなり、科学教育と分かちがたいものとなっていったとされています。
こうして「科学技術理解増進」の活動が日本で進められていた1990代、欧米ではチェルノブイリ事故やBSE問題を経験し、市民と研究者(社会と科学)の対話を重視する路線が主流になっていきました。サイエンスショップやコンセンサス会議などの市民参加型手法が生みだされていったのです。それらの手法や背景は科学技術社会論の研究者たちによって日本にも紹介されました。折しも日本では、もんじゅナトリウム漏れ事故や薬害エイズ問題などが相次ぎ、専門家不信が高まっていました。こうして21世紀を目前に、日本でもさまざまな形で「科学と社会」についての検討が本格的に始まったのです。平成16年版科学技術白書(2004年)では、アウトリーチやサイエンスカフェという言葉が紹介され、双方向的な科学コミュニケーションがうたわれました。現在も、科学コミュニケーションの対話路線を実現するべく、さまざまな施策がとられています。
科学をつたえる人々
科学を伝える職業としては、科学技術ジャーナリストがよく知られています。新聞社の科学担当記者や科学雑誌のライター、編集者、テレビ局の科学報道担当者などです。ちなみに、日本における科学技術ジャーナリストの専門職団体加入者数は少なく、対研究者の割合や対市民の割合で見ると英米の半分以下であることが知られています。また、1980年代前半には「ニュートン」「メカニックマガジン」といった科学雑誌の創刊が相次ぎましたが、短期のうちに休刊にいたっているばかりか、長い歴史をもつ「科学朝日」や「自然」といった雑誌も80年代半ばから90年代にかけて休刊になっています。いっぽうで、多くの市民が、科学に関する情報を新聞やテレビといったマスメディアをつうじて得ているという調査結果もあります。
1990年代後半には、科学技術インタープリターとよばれる人たちが登場しました。この用語は、1996年に設置された「科学技術と社会に関する懇談会」の報告書が初出のようです。科学技術活動の解説をする人というように理解されたため、科学技術インタープリターが科学館や博物館の説明員に限定されてしまったきらいがあります。科学館員や博物館員を科学コミュニケーションの重要な担い手として位置づける意義があった反面、これまでの活動の枠をこえるような科学コミュニケーションの広がりにはつながりませんでした。
科学コミュニケーションの幅広さを世に示したのは、平成16年版科学技術白書(2004年)です。科学技術理解増進活動にとどまらず、科学技術の倫理的・法的・社会的側面や、アウトリーチ活動、コミュニケーションの双方向性などをとりあげました。活動の広がりは、担い手の多様化とも連動しました。ジャーナリストやインタープリターのような職業としてではなく、市民と研究者を媒介する役割として、科学コミュニケーターが登場してきたのです。大学の広報室員のような職業上の科学コミュニケーターも、ボランタリーに携わる科学コミュニケーターも、個々の研究者も、さまざまな人が科学コミュニケーションにかかわるようになるなかで、科学コミュニケーションの歴史や手法などの知識基盤をどこまで共有できるかがが課題となっています。
大学らしさを味わう「子どもの大学」
2002年にドイツのチュービンゲン大学ではじまったKinder-Uni(子どもの大学)。チュービンゲン大学では、夏学期の2ヶ月ほどを使い、毎週同じ曜日の同じ時間に、同じ教室で、8歳から12歳の小学生を対象にした講義を行っています。しかも、受講する子どもの数がなんと数百人、ときには千人を軽く超えることもあるという、「特大」講義です。
その大盛況には、もちろん秘密があります。科学知識を教えることよりも、科学を生みだし伝えている大学という空間を体験してもらうことに主眼をおいているのです。ですから、参加する子どもが大学生気分を味わえるような仕掛けがいくつも施されています。学生証をもらい、保護者の入室が禁じられている大教室に陣取った子どもは、講義開始時刻から15分間ほど、待ちぼうけをくらいます。それがドイツの大学の流儀(“Kum Tempore”)だからです。講義がはじまると、面白いとき、賛同を示したいときなどに、机を拳で叩いてみせます。これもまたドイツの大学生の慣習を真似たものです。そして講義がおわると、メンザと呼ばれる学生食堂に向かい、本物の大学生に交じって食事をとります。地元の新聞社が後援しているため、参加者は無料で食事ができるのです。2007年からは修了証も発行しはじめました。
もちろん、講義する教員の側の工夫もあります。実物や模型、映像などを効果的に使うことはもちろん、歴史を語ると惹きつけやすいとか、(大教室なので)壇上にとどまって子どもの視線をつかまえておく方がいいとか、5年間の経験を踏まえた講義のティップスが共有されているのです。『子どもの大学』の講師に選ばれることは今や名誉なことらしく、名乗りを挙げる教員が引きも切らないといいます。
この『子どもの大学』、ドイツ語圏の大学を中心に広がりを見せており、ドイツ国内の情報共有サイトDie Kinder-Uni(http://www.die-kinder-uni.de/)に加え、国を超えた欧州のネットワークEUCUNET(http://www.eucu.net/)も形成されました。それぞれの大学の特徴にあわせて、夏休みに集中講義を行う、近隣の複数大学が共同で開催する、などのバリエーションが生まれていますが、大学という空間を体験してもらおうというコンセプトは維持されています。
オトナのための「名大サロン」
名大サロン(http://www.a.phys.nagoya-u.ac.jp/salon/)は、名古屋大学東山キャンパス内のレストランで月に一度、平日の夜6時から9時まで開催されているイベントです。2002年9月に9名の世話人によって始められました。名古屋大学の「教員による講演(研究ばなし)を肴にワインの杯を傾けつつ闊達な議論を交わすという、真の意味のシンポジウムを目指した会」(ホームページの説明より抜粋)です。もともとは、名古屋大学内の異分野交流の会としてはじまりましたが、学内関係者だけではもったいないということで、途中から市民にも公開することにしたそうです。お酒の席なので未成年者は参加できませんが、大人なら誰でも参加できます。
大学の正式な行事ではない名大サロンは、世話人をつとめる教員たちのゲスト交渉術(?)と、片付けにきてくれる学生たちによって、一月も休むことなく2008年11月にぶじに第75回を数えました。長く続けていると、常連となる市民もでてきます。講演がつまらないときはしっかりダメだしを行い、また、新参者がいると思えば積極的に話しかけるなどしてお世話係をつとめているので、常連の協力あっての名大サロンとなってきているようです。ちなみに、名大サロンには、お酒による問題を防ぎ、また闊達な議論を促すルールブックもあります。
名大サロンはキャンパス内のイベントではありますが、サイエンスカフェが日本で流行するよりも以前から、研究者と市民が同じ目線で学問について語り合う場として存在していたのです。
『珍問・難問 宇宙100の謎』
市民から宇宙に関する質問を募って、研究者が回答を作成し、ベスト100のQ&Aを集めて書籍を出版する−こんな一風かわった科学コミュニケーションがはじまったのは2006年のことでした。科学コミュニケーション活動において、話題の設定を市民にゆだねることは案外すくないものです。しかも、市民と研究者が書籍を一緒につくるというゴールを導入するというのはかなり珍しい試みです。
2006年7月、案内ポスターや案内はがきを全国の天文台・科学館、名古屋大学星の会(参照コラム 名古屋大学星の会)会員、愛知県内の小中高等学校に送付し、同時にウェブサイトを開設して、市民からの質問募集を始めました。募集〆切までの約半年間に集まった質問は、約1000件(メール600通、はがき150通)にのぼります。似通った質問を1つにまとめる、複雑な質問を分割する、などの作業を経て、317件の質問がウェブサイトに掲載されました。
回答は教員や大学院生が担当しました。大学院生にとっては試練の日々だったようです(参照コラム プロジェクト「宇宙100の謎」)。研究の現場にいては思いつかないような質問もありました。「宇宙はにおいますか?」「メリーゴーランドでは目が回るのに、まわっている地球にいても目が回らないのはなぜ?」「花火師をしていますが、宇宙で花火をあげたらどうなりますか?」といった質問です。公開された回答に対しては、もっと詳しく教えて欲しいといった要望や、更なる疑問など、市民からのコメントを受け付けました(コメントは少なかったのですが)。
思いのほか長引いた出版交渉ののち、書籍化にむけた回答の精錬やイラスト・装丁の発注などが2008年春頃から急ピッチで進められました。2008年10月に『珍問・難問 宇宙100の謎』(福井康雄編著、東京新聞出版社、2008年)がぶじに出版され、出版記念講演会も開催されています。
市民と大学教授をむすぶ「Science-Citoyen」
大学や公的研究機関によるオンライン科学Q&Aの先駆けともいえるScience-Citoyen(科学—市民、http://science-citoyen.u-strasbg.fr/)。市民が寄せた科学に関する質問に、専門家が回答してくれるウェブサイトで、ルイ・パスツール大学(フランス)が運営しています。「ナノテクノロジー」、「石油」、「太陽系外の惑星」、「電磁波の人体影響」、「遺伝子組み換え作物」、「食品添加物」などの社会的関心の高い話題をたてて質問を受け付け、回答はその話題を専門とする教授が行っています。回答は1つだけのこともあれば,署名入りでいくつか掲載されることもあります。このウェブサイトを運営しているのは大学と社会の橋渡しをミッションとする部署で、大学の博物館運営や、サイエンスカフェ、公開講座といったイベントなどとならんでScience-Citoyenが企画運営されています。職員の「インターネット時代にふさわしい活動をしよう」という思いを形にするにあたり、①市民の科学的知識のレベルを問わない、②社会的な関心をよぶ科学的話題を選ぶ、③単に質問を受けて回答するだけでなく、市民と科学者の対話の場(フォーラム)をめざす、という方針をたて、2001年2月からウェブサイトを公開しています。運営部局には大学や州から資金が提供されていて、ウェブ作成にかかる人件費が主な支出となっています。
これまでScience-Citoyenへのアクセス数は飛躍的に伸びてきました。フランス語で書かれているので、世界各地のフランス語圏の国や地域からアクセスがあり、いまでは国外からのアクセスが半数を占めています。また、教授に回答を依頼しても、当初のように難色を示されなくなり、積極的に関与してくれるケースが増えてきたそうです。
ただし、いくつかのテーマは立ち上げたものの質問がなかったり、ある時期を境に動きがなくなったりしています。そういったテーマをいかに活性化するか、また、質問が来てから回答が掲載されるまでの時間を縮めて臨場感を出せないか、などの検討が進められています。また、初めに意図したようなフォーラムとなるまでには今のところいたっていません。これまで市民から寄せられた質問には、純粋に知識を問うものが多く見られました。インターネットを用いた議論の難しさとともに、市民が大学(の教員)に求めるものが表れているようです。市民は特定の専門分野における知識・知見を尋ね、大学教員は、学問研究を社会から付託された者として、その質問に誠意を持って答える、というシンプルな図式がScience-Citoyenにはあるのです。
サイエンスカフェ
スポーツ・カフェ、ジョブ・カフェなどテーマのあるカフェが流行りの昨今、街角のカフェで珈琲片手に気軽に科学の話をしようというのがサイエンスカフェです。1990年代後半にイギリスではじまった科学喫茶(カフェ・シアンティフィーク)やフランスではじまった科学酒場(バー・デ・シアンス)が世界中に広まったものです。
サイエンスカフェは、一般的には大学キャンパスの外に会場を設け、少人数での対話を行うものです。大学というだけで堅苦しさを感じてしまう市民も多いですし、日常生活のなかに科学という文化を根付かせることが期待されているからです。また、研究者が話題提供をする時間は短くし、研究者と参加している市民とが気軽に会話できる時間を長くとります。研究者から市民への一方通行の説明とならないよう、プロジェクターによる投影をしないとか、ファシリテーターをおいて議論を盛り上げるとかいった工夫をしているところも多いようです。
日本では、産業技術総合研究所技術と社会研究センターが『科学技術と社会の楽しい関係: Caf_ Scientifique(イギリス編)』(2004年)として紹介したのを受けて、平成16年版科学技術白書(2004年)に取り上げられ、広く知られることとなりました。翌2005年あたりから急速に開催数が増えています。そのひとつ、カフェシアンティフィーク名古屋(CSN、http://www.info.human.nagoya-u.ac.jp/lab/phil/cafe/)は2006年4月から科学喫茶や科学酒場を始めました。CSNの特徴は、小さなバーでこぢんまりと実施していること、ファシリテーションらしいことをあまりせずにオーガナイザーも参加者として楽しんでいること、参加者だった市民や学生が企画にも参加するようになっていることでしょうか。
じつは、日本におけるサイエンスカフェは大人数を対象とすることも多く、講演が主体になっているのではないかという懸念が、国内にも、また生みの親である英国のトム・シェイクスピア氏らにも持たれています。海外の手法を日本流にアレンジすることも時には必要でしょうが、核となるコンセプトは大切にしたいものです。サイエンスカフェ発祥の地であるヨーロッパにおいては、話題提供をする研究者自身がみずからの研究を日常の文脈に位置づけ直すようなきっかけとなるかどうか、参加する市民に科学技術にかんする問いが生まれるかどうか、といった観点が重視されているようです。
科学にたいする市民的パトロネージ
いま私たちが「科学」として接しているものには、もちろん長い歴史があります。なかでも17世紀科学革命は、現代の科学(科学観)を形づくる直接の礎となりました。そのころの科学研究は、富裕層の趣味的活動として、もしくは富裕層からパトロンを得て、行われていました。たとえば、科学革命の主役ともいえるコペルニクスは、役人、司祭、医者といったさまざまな顔を持ち合わせていましたが、大学に勤めたことはなかったのです。ケプラーやガリレイのように大学教授だった科学者や数学者もいますが、当時の大学ではむしろ知識を伝達することに主眼がおかれていました。
時は移り、現代の科学研究は、国や地域の政府による援助のもとに大学や公的研究機関において遂行されるようになりました。科学のパトロンが、富裕層から、政府や大学という制度化された体制によるものへと変わったのです。
とはいえ、科学研究の資金のほとんどは市民の税金でまかなわれています。その事実が、研究者にとっても市民にとっても見えづらいものとなっているだけなのです。このような状態は間接的な資金提供であるがゆえに起きているわけですが、市民社会への転換をはかる現代にあっては、見えづらいイコール知らなくてよい、では済まされないこともあります。
そこで大事になってくるのが、市民から研究者(研究プロジェクト)への直接的な支援、すなわち「市民的パトロネージ」です。市民的パトロネージの具体例としては、財政的および非財政的な市民的パトロネージをえて電波望遠鏡「なんてん」を南米チリに移設した事実があります(参照コラム 電波望遠鏡「なんてん」移設の物語)。支援金額が大きくなくとも、また、金銭的支援でなくともよいのですが、顔が見える形での支援が成立することは、科学研究がひとりひとりの市民によって支えられているという現状を浮かび上がらせるきっかけとなるからです。また、研究者が市民的パトロネージを募集し維持することや、市民がパトロネージを行うか否かを決定したり実際にパトロネージを行ったりすることによって、研究者と市民とのコミュニケーションのあり方にも変化が及ぶと考えられています。
電波望遠鏡「なんてん」移設の物語
名古屋大学天体物理学研究室の福井康雄教授が、南半球における観測を研究テーマに選んだのは、1980年代半ばのことでした。しかし国の研究費で海外に装置を移設・運用した前例はなく、まずは移設に備えて、分解できるミリ波電波望遠鏡の開発に着手したのが1987年のことです。名古屋大学内で観測を始めた1991年ごろには、南米チリのラスカンパナスが観測地と定まり、また海外への移転運用については国の研究費が使用できる見込みがでてきました。ただし、装置運用の費用については依然目処がたっていなかったのです。
そんな折に、福井教授の公開講座に出席した主婦が望遠鏡移設の願いに共感し、なにかの助けになればと地元企業の社長を福井教授に紹介したことが契機となって、市民の支援を得て資金集めをするというアイディアが生まれました。また別の機会には、公開セミナーに出席していた天文ファンの地元商店店主から、支援してくれる市民を組織化することを勧められます。
このアイディアと提案により、移設プロジェクトを支援する市民たちの団体「名古屋大学星の会」が1994年に設立されました。これと前後して、福井教授は数多くの市民向けセミナー・講演会や、マスメディアを通じて、移設費用の支援を市民に呼びかけました。また、地元経済界について勉強し、地元企業へ支援呼びかけに出向くことを繰り返しました。福井教授が企業へ出向く際には必ず星の会の中心メンバー2、3名が同行し、市民も応援しているプロジェクトであることを企業側へ伝えるなど、福井教授の交渉をサポートしました。
最終的に、企業からの寄付が1億円、市民からの寄付が1千万円集まり、装置移転費用としては国からも1億円が予算計上され、1995年に移設作業が始まりました。1996年の開所式には支援した市民のうち希望者も参加、また市民から電波望遠鏡の名称を募集して「なんてん」と決定し、命名者への表彰も行っています。
現在「なんてん」はサブミリ波の観測用に改良されて「NANTEN II」となり、同じくチリのアタカマにて観測が行われています。名古屋大学星の会も新しい会員を迎えながら活動を続けています。
市民と天文研究者をつなぐ「名古屋大学星の会」
名古屋大学星の会は、名古屋大学の天文学研究の成果を「受信」し、一般社会へ伝達する「架け橋」となり、もって天文学の発展に寄与することを目的とする任意団体です。会員数は約600名、東海三県在住者が大多数をしめています。天体物理学研究室の電波望遠鏡移設(参照コラム 電波望遠鏡「なんてん」移設の物語)に協力する市民によって設立されました。
名古屋大学星の会の定例活動としては、年1回の総会・講演会と年2回のニューズレター発行のほか、講演会「南天に広がれ宇宙ロマン」や名古屋市科学館主催のセミナー「天文学最前線」の後援があります。そのほかに、会員の希望に応じて、観望会(星を観る会)、星と音楽の夕べ、チリ天文台ツアーなどが企画されてきました。また、研究室に滞在する外国人研究者のために陶器ひねりの会を催す、青少年むけの研究室公開のおりに手弁当で喫茶コーナーを設ける、名古屋大学星の会の情報を集めたウェブサイト(http://www.geocities.jp/fromnanten/)を独自に運営するなど、会員がそれぞれの人脈やスキルをいかして名古屋大学の天文学研究を支えています。望遠鏡はすでに移転しましたが、海外での研究活動の維持費として、寄付金募集もひきつづき行われています。ちなみに、イベントのあとには懇親会が設けられるのが通例となっています。
会員の横顔はさまざまです。子どもの頃からの天文ファンで最先端の研究に触れるのがともかく楽しいという人、星をながめるのが大好きという人(なかには、電波望遠鏡のデジタルデータには関心がないと言い切った人もいました)、教員や大学院生の活動を支えることが嬉しい人、星の会のイベントを通じて得た知識を科学館ボランティアなどとして社会に還元することが喜びの人。会員同士の絆も深まっています。人材の多様性とネットワークが、活動の幅の広さに現れています。
総じていえばうまく成立している名古屋大学星の会ですが、悩みもあります。いちばんはコアメンバーの高齢化。若い人に入ってほしい、という声をよく聞きます。つまり、ながく存続してほしい、それだけの価値があるコミュニティだという意識があるのです。
といっても、名古屋大学星の会がなにか特別なことをしているコミュニティというわけではありません。科学を取り上げていること、研究者と市民が直接にふれあう機会を継続して提供していること、という点がほかのコミュニティと違うだけです。もしかしたら、科学コミュニケーションが特別視されてしまっていることの裏返しなのかもしれません。いずれにしても、科学コミュニケーションのモデルケースの1つであり、科学に対する市民的パトロネージの成功事例といえるでしょう。
若手研究者にも科学コミュニケーションの実践を:「宇宙100の謎」の挑戦
研究者と市民との双方向コミュニケーションの必要性が認識されるにつれ、科学コミュニケーション能力向上のための教育プログラムも開発が進められています。ただし、それらのほとんどは、専門分野に関わりなく提供されていて、大学院生やポスドクは研究に費やすべき時間を割いて受講しなければならない状況にあります。
そこで、1つの研究室をベースとして科学コミュニケーション活動「宇宙100の謎」プロジェクトを企画運営し、その活動を通じて大学院生に科学コミュニケーションを学んでもらう、というプログラムを試行しました。対象とした研究室は、教員が積極的に科学コミュニケーションを行ってきた経緯をもつ、名古屋大学の天体物理学研究室です。
大学院生たちは教授の指導のもとで、宇宙に関する質問を市民から集め、それらに答え、さらにその答えに対するコメントを市民から募りました。これらのやりとりは主にウェブサイトを通じて行われ、その管理運営も大学院生やポスドク達が担ったのです。また、関連イベントとして「宇宙100の謎大発表会」を開催したり、国際的なアウトリーチの場であるESOF2008 Outreach Exhibitionへの出展を行ったりしてきました。2008年10月にはベスト100の質問&回答からなる書籍『珍問難問 宇宙100の謎』を刊行し(参照コラム 『珍問難問 宇宙100の謎』)、プロジェクトはひとまず一巡したところです。
参加した大学院生への聞き取り調査からは、このプロジェクトが、大学院生の科学コミュニケーションに対する意識向上、市民と研究者との視点の相違についての認識、専門家としての自覚・自立などにつながるものであったことが確認されました。また、1研究室内で実施するため、教授の目が届きやすく、研究や研究室の状況にあわせた活動の展開も可能であるといった利点も活用されていました。
身の回りにある科学コミュニケーションの機会をとらえて、大学院生やポスドクたちを育ててみませんか。